歴史

■岡部吉兵衞(初代会長)の入信

初代会長 岡部吉部衛

初代会長・岡部吉兵衞は、1846(弘化3)年2月22日、播磨国伊津の浦(現在の兵庫県たつの市)にて、漁師・大西源左衛門・おふくの二男として生れた。
1856(安政3)年、満10歳の年に、揖東郡旭陽村ノ内津市場村89番地(現在の姫路市網干区津市場)在住の染物業、岡部商店当主、岡部源兵衛・古宇の養嗣子に迎えられた。
数え23歳にて、明治元年を迎え、明治11年33歳にて同村津市場村、岡部家在地より東200メートル程の地に味醂(酒類)製造業の治田(じだ)勘次郎・いとの四女はつ(23歳)と結婚した。
1884(明治17)年頃、藍玉問屋の正木国蔵氏が播州地方へ藍玉を卸しに来ていた。当時、吉兵衞は10年以前より胃腸がすぐれず病弱で、医者や薬では効果がなく、不治の病であると落胆していた。このとき、商談に来た正木国蔵氏から「身上かしもの・かりもの」の話を聞き深く感銘し、入信を誓った。吉兵衞40歳の時であった。


■網干真明講のはじまり

元々、阿波国撫養町の講社であった正木氏は「度々来ることができないので、飾磨に紺谷久平という熱心な者がいるからお話を聞くように」と吉兵衞に勧めた。吉兵衞は明治18年の冬に紺谷久平を訪ね、翌年には紺谷氏と共に兵庫真明講の端田久吉を訪ね、諸先生のお世話に預かり、いよいよ入信の念を固め、各地に奔走して網干真明講を結成する。これが網干の始まりである。


■初のおぢばがえり

1888(明治21)年11月、吉兵衞のもとへ、高田村の橋本某の親戚という人から連絡があり、「橋本氏が所持していた赤衣、お守り、御古記の3点を自分の死後、必ず天理教の本部へ返してほしいと遺言があった」との相談であった。そこで吉兵衞はおぢばへ帰り事の次第を報告すると、鴻田忠三郎、辻忠作の両氏より「それは神様よりお前さんにお下げくだされた赤衣さんだ」と言われ、赤衣を戴くこととなった。この時、吉兵衞は同時に「おさづけの理」を拝戴し、二重の喜びを胸に帰村した。


■網干出張所の設置

教導職試補となた吉兵衞は布教に一層専念し、網干真明講には毎晩のように人々が集まり、元の神、実の神の話に明け暮れしていった。1890(明治23)年には網干の上級にあたる飾磨真明講(紺谷久平)が隆盛を極め、飾東支教会の運びとなり、吉兵衞はその理事の役柄を受け持った。
1896(明治29)年、網干真明講は信者の数も120戸に至り、揖保郡網干町の永岡与三郎宅家属の提供を受け、兵神分教会部内網干出張所設置御願の願書を提出し、同年2月1日許しを得た。


■初代の出直しと2代会長

網干出張所設置以来、岡部吉兵衞は、家業の紺屋を長男吉雄にゆずり、道の遅れを悟り、日夜「たすけ一条」に邁進した。かくて網干の道は一斉に芽を吹き始めたが、1908(明治41)年、吉兵衞は再度身上をいただき、63歳で出直した。
2代会長の岡部吉雄は、貧しい中を勉学に励み、16歳で初代が道一条となったため、家計を受持ち、昼は商用に、夜は米をふみながら読書をして、初試験の勉強もしたという。そして1909(明治42)年2月、網干支教会へ改称と同時に2代会長へ就任した。

■網干分教会への昇格

旧大教会の外観

1925(大正14)年、兵神から飾東が分離することとなり、2代会長は分離委員を拝命。休むことなく尽くしきった。当時2代会長は「一生の間に日本の各府県に1カ所の名称をいただきたいものだ」と言い、「この世で人を助けるという事は他の何物にも勝る仕事で、人として最上のご奉仕の道である」と語った。同年9月には、網干分教会へと昇格することとなった。

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